めざせ100万部！ベストセラーへの道

第一章その4
　「英子か。おれだ」
　「ちょっと待ってね。場所を移動するから」
　そう言って、英子は席を立ち、廊下へ出た。通路には人はいない。
　「えらく早いわね。それでどうだった？」
　「ああ、彼氏のような失踪だが、やっぱり事件としては出ていないな」
　英子は少しがっかりした口調で、「そうなの…」と肩を落とした。もし、同じような事件があれば、その関連の事件ということで警察に届け、調査してもらえるのにと思っていたのだ。

　「彼氏の失踪とは関係がないと思うんやが、最近、多重債務者の失踪が目立って多くてな。ある日、突然、何の前触れもなく蒸発する、普通なら逃げたんだろうと思うんだが、どうもふに落ちないところがあってな、今、こちらでも調査しているところや」
　兄はそう言って、電話を切った。英子は兄の「多重債務者」という言葉に引っかかっていた。彼はどうだったのだろうか。多重債務者ではなかったのか。それさえも英子は知っていなかった。　


　非番の遠野警部の趣味は安くて美味しい店を探訪することだ。この日は鶴橋に来ていた。妻が亡くなって五年、今は娘との二人暮らしだが、その娘も来年春には結婚をする。一人暮らしに慣れていない遠野警部は、今からその時が来るのをおそれている。
　鶴橋駅前の回転寿司の店で、寿司を五、六皿食べ終え、もう少し食べようか、どうしようか迷っている時に携帯が鳴った。
　「警部、事件です。今から現場に来て頂くことは可能ですか」
　部下の斉藤だった。
　「場所はどこだ」
　「桃谷駅から歩いて10分ほどのマンションです」
　「よし、ちょうど今、鶴橋にいる。これからすぐにそちらへ向かう。詳しい場所を教えてくれ」
　遠野は、支払いをすませると急いでタクシーを拾った。桃谷まではわずかな距離だが、一刻の猶予も出来なかった。5分足らずで目的地に着き、現場に走った。
　「警部、お待ちしていました。すみません。非番のところを呼び出したりして」
　「いや、いい。それより何があったんだ」
　「誘拐です」
　「誘拐？」
　ワンルームマンションの一室に斉藤と遠野、それに鑑識係が数人いた。特に荒らされた様子もない。
　「そうです。隣に住む住人が、その現場を目撃して連絡をくれたんです」
　「この部屋の住人は男性だったね。なぜ、誘拐とわかったのかね」
　「現場を見た人の話では、ドアを激しく叩く音がして、ドアが開くや否や、数人の男が、隣の住人を無理矢理連れ去ったということです。その様子を見て、急いで警察に電話をくれたと、まあ、事件のあらましはそんなわけで、それで自分と鑑識が駆けつけたという次第です」
　斉藤の話を聞きながら遠野警部は部屋の中を物色しはじめた。定年間近とはいえ、遠野は元気だった。見かけは確かに五十代後半のそれだが、その動きは四十歳になったばかりの斉藤とそう変わらなかった。きびきびした動きで、部屋の中を歩き回り、鑑識となにやら話し込んでいる。
　斉藤は、近隣の住人への聞き込みを続けることにした。
　両隣の住人の話では、今回のようなことははじめてだと言ったが、すべてを観察しているわけではない。管理人に聞こうと思ったが、管理人は一週間前から入院中ですぐには連絡が取れない。
　近所の家に聞き込みをかけようと一階に下りた時、斉藤の携帯が大きく鳴った。
　「おい、斉藤。今どこにいる？　すぐ上がってくれ」
　遠野からの電話だった。斉藤は、下りて来たばかりのエレベーターに乗って8階へのボタンを押した。