「おねえ、助けてくれ」
カズが書いた血文字が脳裏によみがえる。
「わかったわ、カズ。あなたを助けてあげる。おねえが必ずあなたを助けるわ」
英子は決心した。この事件の背景にはきっと大きな闇がある。どんな結論に至るか見当もつかないけれど、とにかく、カズを助けるために頑張ってみよう。そう心に決めた。
英子の仕事はアパレルのデザイナー。そろそろ独立してはどうかという声も聞かれるが、英子にはまるでその気がない。それよりも英子は結婚がしたかった。
これまでも何度か見合いをし、数回にわたって恋愛もしたが、すべてうまくいかなかった。英子の気の強さもあっただろうが、男性が弱すぎた。
カズと知り合ったのは、結婚をあきらめかけた頃のことだ。人生を遊んじゃえ。やや自暴自棄になっていた頃の出会いだからすんなりと遊びの恋愛に入っていけた。しかも相手は自分よりずいぶん年下である。
しかし、遊びの恋愛が出来るような英子ではなかった。つきあい始めるとどうしても相手を結婚の対象としてみてしまう。相手がカズのように生活力のない年下の男であったとしてもだ。
英子は悩んでいた。新川部長のように自分に言い寄って来る男は多い。社内でも英子に気のある男性は少なくない。だが、みんな意気地がない。英子が一言、きつい言葉を浴びせただけで、あわてて身を引いてしまう。なぜ、言い返して来ないのか。なぜ、突っかかって来ないのか、不思議でならない。意気地のない男は嫌いだ。
カズは英子がどんなにきつく言っても一向にひるまなかった。言い返しもしない代わり逃げもしない。いつも平気で英子を翻弄する。こんな人はじめてだと英子は思った。それがカズに惹きつけられた理由の一つだ。
カズがもし無事に見つかって、再び付き合うようになっても、英子の口から「結婚」という言葉は出ないだろう。彼は若すぎる。それに何よりもモテすぎる。愛人の心配をしながら暮らすなんて到底耐えられそうにない。だから結婚はきっとしないと思う。でも、大好きだ。英子はカズのことを思うだけで胸がキュンと鳴り、体の芯がうずく。荒々しい彼の抱擁を英子は忘れることが出来ない。だから…、だからカズを助け出さないといけない。真剣にそれを思い、そのために会社をしばらく休職する決心をした。
休職のお願いを書面に記し、部長に届け出ると、部長は「ケッ」といった表情でそれを突き返す。
「きみ、今がどんな時期かわかって言ってるのかね」
「はい。承知の上です。もし、休職の願いが聞き届けなければ退職届けを出させていただきます」
英子の言葉に、それまで横を向いていた部長が英子の方に向き直った。
「き、きみ。何を言ってるんだね。何もダメだと言ってるわけじゃないんだ。この忙しい時期に急にこんな届けを出されたら誰でもびっくりするじゃないか。そうだろ? ところで休職願いの事情ってのは何だね」
聞かれた英子はあらかじめ用意していた言葉を部長に告げた。それは、事情があってしばらく実家に帰らないといけなくなったということであった。
「きみの田舎はどこだった?」
「和歌山県です」
「近いじゃないか。別に休職しなくても…」
「いえ、南紀地方で田辺という町ですからとても通うことは出来ません」
「…そうか。わかった。考えておく。おって返事をするから」
そう言って部長は立ち上がり、英子を一瞥した。
いつ見てもキザでエロイ男だ。視線が合った時、あらためて英子はそう思った。
「それはそうと、一度付き合いたまえよ。この間は邪魔が入ったが今度はそうはいかんぞ」
言い終わるか言い終わらないうちに英子は部長のそばを離れていた。
「失礼します」
部屋を出ると、怒りがこみ上げて来た。「人をなんだと思っている」閉めたドアを思い切り叩きたい衝動に駆られながら、英子はカズを捜す手段を考えはじめていた。